昭和3年開業時からの名車(デハボ)1000を中心に、京都、京阪三条ー奈良、橿原神宮間の輸送を担っていましたが
昭和38年9月30日に歴史を閉じ、近鉄に合併されました。
奈良電時代の車輌たちの姿です。


(車輌形式をクリックすると写真が見られます)


奈良電気鉄道・新田辺車庫
(S38-9-5)
元奈良電にお勤めだったことのある”N”さんから昔の思い出が寄せられました。お許しを得て掲載
させていただきます。
 どの車両にもそれぞれ独特のクセがあって、思い出やエピソードがいっぱい詰まっています。
扉扱いは全部手動で、1000形などの三扉車は駅に着くと走っていってセンタードアのラッチを開鎖し、
戻る途中で手笛を吹いて発車合図を送り、動き出した電車に飛び乗るというような今から考えると随分
危険な作業をしていたものです。
もっとも、その頃は単行運転や、せいぜい2連程度の編成でしたが食糧難の時代でいつも満員状
態でした。
少し運行ダイヤから遅延すると、復員帰りの気の荒い運転士などは、いきなりオートマチックからマ
ニュアルに切替えて(マスコンの前進レバーを2段押し込んで手動ノッチにする)急発進するので泣かさ
れたものです。
全車が自動ドアになったのは昭和26,7年頃だったと記憶しています。
昭和23年新造の近鉄モ600タイプによく似たMc1100+Tc700でも手動ドアで、M車は単行運
転を予定していたのか両運転台方式でした。
両運転台方式はその後も抜けきれず、貨車改造の永久連結1300型(足回りが貧弱でピッチング
が激しく、ホッピングカーと乗務員仲間で呼んでいた)まで続きました。
それまでは、乗り入れしている京阪、近鉄の自動ドア車が羨ましかったものですが、在阪の大私鉄
でも木造の手動扉車が混在して走っていた時代でした。
クハボ600形は自動ドアが設置されるまで運転台の仕切りは折り畳み式になっていて(片運転台
方式)車掌用の専用扉がなく、3連以上の中間車として運用されるときは運転台をコンパクトに折り畳む
と[サハ]?状態になる設計になっていました。
運転室の折り畳み構造は、客室部のコーナーから2分して運転席の背板は側板方向に、右側の仕
切り板はマスコンや制動弁の厚さの固定部分を残して妻板方向に折り曲げ、運転士の椅子も(丸型)
折り畳んでその間に収まるような構造になっていたと記憶しています。ただ仕切り板が上まであったのか
半分程度の高さだったのかは覚えておりません。(多分腰板の高さまでと思います。奈良電の運転台は
戦後まで開放セパレート方式でした。) 
折り畳んでも生まれるスペースは知れたもので、何か中途半端なアイデアだった様な気がしますし、
実際には折り畳まずに使用されていました。
しかし大抵は2連運用で、ウンよく車端一杯まである座席(ロングですが)に坐ったお客さんは展望
車気分を味わえたでしょうが、乗務する車掌はたまりません。まるでバスガール?状態で、下校時の女
子高生にでも取り囲まれたときは本当に困りました。おまけに手動のスライディングドアーは発車すると
慣性で自動的??に閉まるので、飛び乗りすることも出来ず車掌泣かせの車でしたので、自動ドア化と
同時に全室運転台に改造されたときは大喜びをした記憶が有ります。
そのほか、デハボ1024は開業時貴賓車として建造され、戦時中一般車に格下げ、戦後は京都寄
り半車分を仕切って2,3等クラスの合造車に改装されて、白帯車と呼ばれて進駐軍専用車として供用さ
れていた時期がありました。
これらの車両に乗務した時のこと、台風の被害で不通になった時のこと、運転士になってからの失
敗談等々、語りつくせぬほど一杯あります。
この度、この奈良電のページに出会ってそれらの思い出が走馬灯のように駆け巡り、懐かしさのあ
まり筆をとりました。』

 ”N”さんのリアルな思い出です。クハボ600、デハボ1024など当時を思い浮かべてごゆっくりご覧

 下さい。